2011年1月31日月曜日

Pファンクは盆踊りである

何度かビルボードではライブを観てきているが、Pファンクのライブはステージの上も異質なら、客席も異質なものを感じた。
自分の知り合いが多数含まれるが(笑)、星型メガネの人、ジョージみたいなエクステンションをつけた人、公演開始してシャボン玉飛ばして店員に怒られてた人などなど。
ジャンルは違うが、グレイトフル・デッドとファン(デッド・ヘッズ)のような関係性に近いかもしれない。

Pファンクのライブは一種の儀式のようなものだ。祝祭性がある。
客席との一体感が常にライブのテンションを左右するし、
ステージの上には不特定多数とでもいうべき人数が常に出たり入ったりしている。
その中にはライブで「絶対に踊らない!」と宣言し、盛り下げようとする役(サー・ノウズ)もいる。冷静に考えれば、ステージ上に盛り下げるための人物がいるというのは凄いことじゃないだろうか。

そして集団での演奏という点では、サン・ラのアーケストラや、FELA KUTIのバンドの雰囲気がとても近い気がする。日本だったら何だろう?盆踊りとか意外と近いかもしれない(笑)。
そう、Pファンクは盆踊りである。

演者と聴衆(踊り手)を結ぶリズムがあり、どんどんお囃子が入れ替わる。
コミュニティの結束を強める目的を持っている。
その日は皆、少し解放的になれる(笑)・・・。

Pファンクのライブは基本、とてもコミカルにデフォルメされているがそこには一種の批評精神がある。
これは演奏をしているメンバーが意識しているか疑問だが、少なくともジョージ・クリントン本人の頭の中にはしっかりと考えがあると思う。
その批評の対象とは自分たちを取り巻く身近な世界であり、文化だ。

ストレートな政治的メッセージで批評をするのではなく、
マザーシップの降臨や踊らないと宣言するサー・ノウズとの対決、そしてファンカデリックで体現されている「ファンクの合衆国」など、いずれも暗喩的な表現で社会や文化を批評しているのだ。

「活きた」表現だと僕が思う音楽や表現は、必ずそこに批評精神がある。
つまり芸術とかアートの領域にとどまるのではなく、伝えるべきメッセージとコンセプトがあり、
それが有効なものこそが活きている表現だと思う。

この世界観が気に入るかどうかで、随分とPファンクへのハマリ度も変わってくる。
それ程ハマってなくても、彼らにはいい曲やヒット曲がいっぱいあって、それが彼らの知名度や収益を(間接的にも)支えているのだけど、一度ハマった人間は、むしろライブのあのダラダラとした雰囲気や、延々と続く祝祭にやられてしまう。
そしてどっぷりハマってしまった連中(自分を含む)は、二度と抜け出せなくなるというわけ。

たぶん自分も一生この人たちの音楽に夢中なままでいるのだと思った。

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